こんにちは並木(@chujulab_namiki)です。
先日、歴史アプリをリリースさせていただきました。


アプリはリリースしたのですが、こちらも現在はiOSのみの提供となっているためandroidをご利用の方はできませんでした。
そのため歴史の問題につきましてもブログのほうで掲載をしたいと思います!
この機会にぜひ問題を解いてみてくださいね!
まずは旧石器~弥生です。
それではどうぞ。
旧石器~弥生
問題1
打製石器(石を打ち欠いてつくった石器)を使って狩猟や採集をして暮らした時代を世界の考古学者たちは**時代とよんでいる。今から約60年前までは、日本には***時代はなかったと考えられていたが、この通説を変えたのは、相澤忠洋による岩宿遺跡の発見だった。
問題2
打製石器(石を打ち欠いてつくった石器)を使って狩猟や採集をして暮らした時代を世界の考古学者たちは旧石器時代とよんでいる。今から約60年前までは、日本には旧石器時代はなかったと考えられていたが、この通説を変えたのは、****による岩宿遺跡の発見だった。
問題3
****(石を打ち欠いてつくった石器)を使って狩猟や採集をして暮らした時代を世界の考古学者たちは旧石器時代とよんでいる。今から約60年前までは、日本には旧石器時代はなかったと考えられていたが、この通説を変えたのは、相澤忠洋による岩宿遺跡の発見だった。
問題4
打製石(石を打ち欠いてつくった石器)を使って狩猟や採集をして暮らした時代を世界の考古学者たちは旧石器時代とよんでいる。今から約60年前までは、日本には旧石器時代はなかったと考えられていたが、この通説を変えたのは、相澤忠洋による**遺跡の発見だった。
問題5
***遺跡からナウマン象の化石が発見された。
問題6
この時代の土器は、表面に縄目の文様が付けられたものが多いことから、**土器とよばれている。また**土器の用いられた1万6000年前ごろから紀元前4世紀ごろまでの約1万数千年間を時代とよぶ。
問題7
従来、縄文時代は、狩猟・採集にたよる不安定な移動生活で、貧しく原始的な生活をしていたと考えられてきた。ところが、青森県の***遺跡から、約5500年前の大きな定住集落の跡が見つかり、縄文時代のイメージを大きく変えた。
問題8
明治時代の初めにエドワード・モースによって****が発見された。
問題9
**土器という茶褐色の新しい土器がつくられるようになった。黒褐色の縄文土器よりうすい土器で、つぼ、かめ、食器などさまざまな用途に使われ、稲作とともに全国に広がった。**土器が用いられていた、紀元前4世紀ごろから紀元3世紀ごろまでの約700年間を**時代とよぶ。
問題10
稲作によって食料が豊かになると、ムラの人口は増えた。ムラどうしの交流がさかんになるとともに、水田や用水、収穫物をめぐる戦争がおこり、ムラを守るために周囲に濠がつくられた。これを****という。この時期の集落の跡としては、佐賀県の吉野のヶ里遺跡や静岡県の登呂遺跡がある。
問題11
稲作によって食料が豊かになると、ムラの人口は増えた。ムラどうしの交流がさかんになるとともに、水田や用水、収穫物をめぐる戦争がおこり、ムラを守るために周囲に濠がつくられた。これを環濠集落という。この時期の集落の跡としては、佐賀県の*****遺跡や静岡県の登呂遺跡がある。
問題12
稲作によって食料が豊かになると、ムラの人口は増えた。ムラどうしの交流がさかんになるとともに、水田や用水、収穫物をめぐる戦争がおこり、ムラを守るために周囲に濠がつくられた。これを環濠集落という。この時期の集落の跡としては、佐賀県の吉野のヶ里遺跡や静岡県の**登呂遺跡がある。
問題13
中国の歴史書には、日本の弥生時代のようすが記録されている。そのうち、漢の歴史書『**』には、紀元前後の日本について、「倭人」(日本人)が100あまりの小国をつくっており、中国へ使いを送る国もあると書かれていた。また、『後漢書』には、1世紀の中ごろ、倭の奴国の王が漢に使いを送り、皇帝が金印を授けたことが記されていた。
問題14
中国の歴史書には、日本の弥生時代のようすが記録されている。そのうち、漢の歴史書『漢書』には、紀元前後の日本について、「倭人」(日本人)が100あまりの小国をつくっており、中国へ使いを送る国もあると書かれていた。また、『***』には、1世紀の中ごろ、倭の奴国の王が漢に使いを送り、皇帝が金印を授けたことが記されていた。
問題15
中国の歴史書には、日本の弥生時代のようすが記録されている。そのうち、漢の歴史書『漢書』には、紀元前後の日本について、「倭人」(日本人)が100あまりの小国をつくっており、中国へ使いを送る国もあると書かれていた。また、『後漢書』には、1世紀の中ごろ、倭の**の王が漢に使いを送り、皇帝が金印を授けたことが記されていた。
問題16
中国の歴史書には、日本の弥生時代のようすが記録されている。そのうち、漢の歴史書『漢書』には、紀元前後の日本について、「倭人」(日本人)が100あまりの小国をつくっており、中国へ使いを送る国もあると書かれていた。また、『後漢書』には、1世紀の中ごろ、倭の奴国の王が漢に使いを送り、皇帝が**を授けたことが記されていた。
問題17
「*****」には、「倭の国には邪馬台国という大国があり、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれをおさめていた」と記されていた。卑弥呼は神に仕え、祭りや占いによって政治を行い、不思議な力で民をよく治めたという。また、卑弥呼が魏の都に使いを送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚などの贈り物を授かったことも書かれていた。
問題18
「魏志魏人伝」には、「倭の国には****という大国があり、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれをおさめていた」と記されていた。卑弥呼は神に仕え、祭りや占いによって政治を行い、不思議な力で民をよく治めたという。また、卑弥呼が魏の都に使いを送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚などの贈り物を授かったことも書かれていた。
問題19
「魏志魏人伝」には、「倭の国には邪馬台国という大国があり、30ほどの小国を従え、女王の***がこれをおさめていた」と記されていた。卑弥呼は神に仕え、祭りや占いによって政治を行い、不思議な力で民をよく治めたという。また、卑弥呼が魏の都に使いを送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚などの贈り物を授かったことも書かれていた。
問題20
「魏志魏人伝」には、「倭の国には邪馬台国という大国があり、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれをおさめていた」と記されていた。卑弥呼は神に仕え、祭りや占いによって政治を行い、不思議な力で民をよく治めたという。また、卑弥呼が魏の都に使いを送り、魏の皇帝から「****」の金印と銅鏡100枚などの贈り物を授かったことも書かれていた。