こんにちは並木(@chujulab_namiki)です。
前回に引き続き古墳・飛鳥時代の問題を掲載します。
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それではどうぞ!
目次
古墳・飛鳥時代
問題1
3世紀後半ごろ、大和(奈良県)の豪族を中心とする強大な連合政権が誕生した。これを****とよぶ。
問題2
3世紀ごろから、日本では、まるで小山のように盛り上がった大きな墓がつくられるようになった。これが**とよばれるもので、**をつくることが流行した6世紀末までの約300年間を、**時代とよぶ。
問題3
古墳は、現在ではこんもりとした緑におおわれた山のようだが、つくられた当時は、表面には石がしきつめられ、太陽の光に照り輝いていた。古墳の周りや頂上には、円筒形や人物・家屋・馬などをかたどった**が並べられ、墓として威容をほこった。大規模な古墳の多くは、入口となる四角い形の手前の部分と、円い形の後ろの部分からなる前方後円墳であった。
問題4
古墳は、現在ではこんもりとした緑におおわれた山のようだが、つくられた当時は、表面には石がしきつめられ、太陽の光に照り輝いていた。古墳の周りや頂上には、円筒形や人物・家屋・馬などをかたどった埴輪が並べられ、墓として威容をほこった。大規模な古墳の多くは、入口となる四角い形の手前の部分と、円い形の後ろの部分からなる*****であった。
問題5
豪族たちの連合の上に立つのは、**(のちの天皇)で、その古墳はひときわ巨大だった。仁徳天皇陵(大仙古墳)は、世界でも最大規模の王の墓である。
問題6
豪族たちの連合の上に立つのは、大王(のちの天皇)で、その古墳はひときわ巨大だった。仁徳天皇陵(**古墳)は、世界でも最大規模の王の墓である。
問題7
朝鮮半島には***、新羅、百済の3つの国が存在していたが、やがて、北部の***が強大になり、4世紀の初めに、朝鮮半島内にあった中国領土の楽浪郡を攻め滅ぼした。高句麗は、4世紀後半には半島南部の百済をも攻撃した。
問題8
朝鮮半島には高句麗、**、百済の3つの国が存在していたが、やがて、北部の高句麗が強大になり、4世紀の初めに、朝鮮半島内にあった中国領土の楽浪郡を攻め滅ぼした。高句麗は、4世紀後半には半島南部の百済をも攻撃した。
問題9
朝鮮半島には高句麗、新羅、**の3つの国が存在していたが、やがて、北部の高句麗が強大になり、4世紀の初めに、朝鮮半島内にあった中国領土の楽浪郡を攻め滅ぼした。高句麗は、4世紀後半には半島南部の**をも攻撃した。
問題10
6世紀の末、大陸では重大な変化がおこった。589年、*が中国全土を約300年ぶりに統一したのだ。強大な軍事力をもつ*の出現は、東アジアの国々にとって大きな脅威だった。
問題11
****は皇族の一人として生まれ、一度に10人の訴えを聞き分けることができるという伝説が残されているほど聡明な人物だった。初めての女帝として推古天皇が即位すると、593年、聖徳太子は、20歳の若さで天皇を助ける摂政となった。
問題12
聖徳太子は皇族の一人として生まれ、一度に10人の訴えを聞き分けることができるという伝説が残されているほど聡明な人物だった。初めての女帝として推古天皇が即位すると、593年、聖徳太子は、20歳の若さで天皇を助ける**となった。
問題13
聖徳太子は皇族の一人として生まれ、一度に10人の訴えを聞き分けることができるという伝説が残されているほど聡明な人物だった。初めての女帝として****が即位すると、593年、聖徳太子は、20歳の若さで天皇を助ける摂政となった。
問題14
600年、****は、隋に使者(遣隋使)を送った。
問題15
600年、聖徳太子は、隋に使者(***)を送った。
問題16
603年、****は、有力な豪族が役職を占める慣例を改め、家柄にかかわりなく、国家のために有用な人材を積極的に役人として採用する、冠位十二階の制度を取り入れた
問題17
603年、聖徳太子は、有力な豪族が役職を占める慣例を改め、家柄にかかわりなく、国家のために有用な人材を積極的に役人として採用する、*****の制度を取り入れた
問題18
604年、****は十七条の憲法を定めた。その内容は、豪族が争いをやめ、天皇を中心に協力していくことなどを求めたもので、公のためにはたらく役人の心がまえと国家の理想が示された。
問題19
604年、聖徳太子はを定めた。その内容は、豪族が争いをやめ、天皇を中心に協力していくことなどを求めたもので、公のためにはたらく役人の心がまえと国家の理想が示された。
問題20
百済の聖明王は、日本との同盟を強固なものにする決め手として、552年、金銅(銅・青銅の金めっき)の仏像と経典を大和朝廷に献上した(****)。****の年については、538年とする説もある。
問題21
****は、607年、再び遣隋使を派遣した。正使に選ばれた小野妹子は、地方豪族の出身だったが、冠位十二階の制度で才能を認められ取り立てられた、優れた人物だった。
問題22
聖徳太子は、607年、再び遣隋使を派遣した。正使に選ばれた****は、地方豪族の出身だったが、冠位十二階の制度で才能を認められ取り立てられた、優れた人物だった。
問題23
****は、607年に法隆寺を建てるなど、仏教をあつく信仰した。
問題24
聖徳太子は、607年に***を建てるなど、仏教をあつく信仰した。
問題25
聖徳太子は、内政でも外交でも、8世紀に完成する日本の古代中央集権国家の設計図を描いた指導者だった。太子が活躍した7世紀には、政治や文化の中心が奈良盆地南部の**地方にあったので、このころを**時代とよぶ。
問題26
隋は高句麗に大軍を出すなどの無理がたたり、30年ほどで滅んだ。618年、*が中国を統一し、新王朝を開いた。*は、隋の制度を引きつぎ、皇帝を中心に、律令(法律)、戸籍、兵役、科挙などの、よく整備された国家の制度をつくりあげた。日本からは、遣隋使に引きつづいて遣*使が派遣され、同行した留学生や僧が、現地に滞在して唐の優れた制度や文化を学んだ。
問題27
蘇我氏を倒す計画を心に秘めていたのは、*****と中臣鎌足であった。鎌足は、蹴鞠の会を利用して皇子に接近し、2人は心の中を打ち明けあうようになった。
問題28
蘇我氏を倒す計画を心に秘めていたのは、中大兄皇子と****であった。鎌足は、蹴鞠の会を利用して皇子に接近し、2人は心の中を打ち明けあうようになった。
問題29
645年、中大兄皇子は、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らとともに蘇我蝦夷・入鹿親子を倒して蘇我氏を滅ぼし、新しい政治のしくみをつくる改革を始めた。この年、朝廷は日本で最初の年号を立てて、大化元年とした。東アジアで中国の王朝が定めたものとは異なる、独自の年号を制定して使用しつづけた国は、日本だけであった。翌年には、これまで皇族や豪族が私有していた土地と民を、国家が直接統治する、公地公民の方針を打ち出した。大化元年に始まるこの改革を、*****とよぶ。
問題30
唐・新羅連合軍との決戦は、663年、半島南西部の***で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本・百済側の敗北に終わった(***の戦い)。次いで、新羅は高句麗も滅ほろぼし、朝鮮半島を統一した。
問題31
白村江の敗北は、日本にとって大きな衝撃だった。唐と新羅の襲来を恐れた日本は、九州に**を置き、水城を築いて、国をあげて防衛につとめた。
問題32
**とは、諸国から集められ、九州北部の沿岸と壱岐、対馬に配置された兵士で、3年交代で防衛の任についた。東国の兵士が多かった。
問題33
*****は都を飛鳥から近江に移し、即位して天智天皇となった。天皇は国内の改革をさらに進め、全国的な戸籍をつくった。
問題34
中大兄皇子は都を飛鳥から近江に移し、即位して****となった。天皇は国内の改革をさらに進め、全国的な戸籍をつくった。
問題35
天智天皇が亡なくなったのちの672年、天皇の子の****と、天皇の弟の大海人皇子の間で、皇位継承をめぐって内乱がおこった。これを壬申の乱という。
問題36
天智天皇が亡なくなったのちの672年、天皇の子の大友皇子と、天皇の弟の*****の間で、皇位継承をめぐって内乱がおこった。これを壬申の乱という。
問題37
天智天皇が亡なくなったのちの672年、天皇の子の大友皇子と、天皇の弟の大海人皇子の間で、皇位継承をめぐって内乱がおこった。これを**の乱という。
問題38
内乱に勝利した*****は、天武天皇として即位し、皇室の地位を高め、公地公民をめざす改新の動きを力強く進めた。
問題39
内乱に勝利した大海人皇子は、****として即位し、皇室の地位を高め、公地公民をめざす改新の動きを力強く進めた。
問題40
天武天皇の没後、皇后の****が即位して、改革を受けついだ。持統天皇は、都として、奈良盆地南部の地に、藤原京を建設した。これは、初めて中国にならってつくられた大規模な都の建設だった。
問題41
天武天皇の没後、皇后の持統天皇が即位して、改革を受けついだ。持統天皇は、都として、奈良盆地南部の地に、***を建設した。これは、初めて中国にならってつくられた大規模な都の建設だった。
問題42
仏教をあつく信仰する太子は崇仏派の蘇我が氏とともに、飛鳥を中心に次々と寺院を建立した。この日本初の仏教文化を**文化とよぶ。仏像彫刻では釈迦三尊像・百済観音像などが代表作とされる。