こんにちは並木(@chujulab_namiki)です。
前回に引き続き今回は平安時代の問題を掲載します。
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それではどうぞ!
目次
平安時代
問題1
****は、寺院などの仏教勢力の影響が強い奈良の地をはなれ、都を移すことで政治を立て直そうと決意した。新しい都は、794(延暦13)年、交通の便利な今の京都の地につくられた。これが平安京で、明治天皇の東京遷都まで約1000年間、都となった。そのうち、鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間を平安時代とよぶ。
問題2
桓武天皇は、寺院などの仏教勢力の影響が強い奈良の地をはなれ、都を移すことで政治を立て直そうと決意した。新しい都は、794(延暦13)年、交通の便利な今の京都の地につくられた。これが**京で、明治天皇の東京遷都まで約1000年間、都となった。そのうち、鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間を**時代とよぶ。
問題3
桓武天皇は、******を征夷大将軍(朝廷が認めた総大将)として軍勢を送り、802年、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。
問題4
桓武天皇は、坂上田村麻呂を*****(朝廷が認めた総大将)として軍勢を送り、802年、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。
問題5
桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍(朝廷が認めた総大将)として軍勢を送り、802年、蝦夷の指導者****を降伏させた。
問題6
藤原氏は、天皇が幼いころは**として、また成長したのちは関白として、9世紀末には国政の実権をにぎるようになった。これを、摂関政治とよぶ。摂関政治の最盛期は、藤原道長とその子の頼通のころで、藤原氏は朝廷の高い地位を一族でひとりじめにした。
問題7
藤原氏は、天皇が幼いころは摂政として、また成長したのちは**として、9世紀末には国政の実権をにぎるようになった。これを、摂関政治とよぶ。摂関政治の最盛期は、藤原道長とその子の頼通のころで、藤原氏は朝廷の高い地位を一族でひとりじめにした。
問題8
藤原氏は、天皇が幼いころは摂政として、また成長したのちは関白として、9世紀末には国政の実権をにぎるようになった。これを、**政治とよぶ。摂関政治の最盛期は、藤原道長とその子の頼通のころで、藤原氏は朝廷の高い地位を一族でひとりじめにした。
問題9
藤原氏は、天皇が幼いころは摂政として、また成長したのちは関白として、9世紀末には国政の実権をにぎるようになった。これを、摂関政治とよぶ。摂関政治の最盛期は、****とその子の頼通のころで、藤原氏は朝廷の高い地位を一族でひとりじめにした。
問題10
藤原氏は、天皇が幼いころは摂政として、また成長したのちは関白として、9世紀末には国政の実権をにぎるようになった。これを、摂関政治とよぶ。摂関政治の最盛期は、藤原道長とその子の****のころで、藤原氏は朝廷の高い地位を一族でひとりじめにした。
問題11
1有力者らはみずから土地を開墾し、藤原氏を始めとする中央の貴族や寺社に寄進した。この土地は朝廷や国司によって税を免除される私有地として承認された。有力者らはその土地の管理者となって力をたくわえていった。管理のための事務所や倉庫は「荘」とよばれたので、これらの私有地を**とよんだ。
問題12
**(伝教大師)は比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈った。
問題13
最澄(****)は比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題14
最澄(伝教大師)は***(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題15
最澄(伝教大師)は比叡山(滋賀県)に***を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題16
最澄(伝教大師)は比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて***を広め、空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題17
最澄(伝教大師)は比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広め、**(弘法大師)は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題18
最澄(伝教大師)は比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(****)は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題19
最澄(伝教大師)は比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師)は***(和歌山県)に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題20
最澄(伝教大師)は比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に****を開いて真言宗を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題21
最澄(伝教大師)は比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師)は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を開いて***を広めた。学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励みつつ、国家と万民の平安を祈いのった。
問題22
894(寛平6)年、右大臣****の建言によって遣唐使が廃止されると、やがて唐風文化を基礎としつつ、日本独自の優雅で繊細な文化が発達した。これを国風文化とよぶ。
問題23
894(寛平6)年、右大臣菅原道真の建言によって遣唐使が廃止されると、やがて唐風文化を基礎としつつ、日本独自の優雅で繊細な文化が発達した。これを**文化とよぶ。
問題24
貴族たちは池などの自然を模した庭園のある**造の屋敷に住み、服装も男性は束帯、女性は十二単などに変わった。絵画は自然や風俗をモチーフにした大和絵が襖や屏風を飾り、その大和絵から物語のある絵巻物が生まれる。鳥羽僧正の筆と伝えられる『鳥獣戯画』の軽妙な筆致は漫画の原形といえる。また平仮名が貴族の女性の間に広まり、仮名文字を用いた文学が生まれた。
問題25
貴族たちは池などの自然を模した庭園のある寝殿造の屋敷に住み、服装も男性は束帯、女性は十二単などに変わった。絵画は自然や風俗をモチーフにした絵が襖や屏風を飾り、その大和絵から物語のある絵巻物が生まれる。鳥羽僧正の筆と伝えられる『鳥獣戯画』の軽妙な筆致は漫画の原形といえる。また平仮名が貴族の女性の間に広まり、仮名文字を用いた文学が生まれた。
問題26
貴族たちは池などの自然を模した庭園のある寝殿造の屋敷に住み、服装も男性は束帯、女性は十二単などに変わった。絵画は自然や風俗をモチーフにした大和絵が襖や屏風を飾り、その大和絵から物語のある絵巻物が生まれる。鳥羽僧正の筆と伝えられる『****』の軽妙な筆致は漫画の原形といえる。また平仮名が貴族の女性の間に広まり、仮名文字を用いた文学が生まれた。
問題27
貴族たちは池などの自然を模した庭園のある寝殿造の屋敷に住み、服装も男性は束帯、女性は十二単などに変わった。絵画は自然や風俗をモチーフにした大和絵が襖や屏風を飾り、その大和絵から物語のある絵巻物が生まれる。鳥羽僧正の筆と伝えられる『鳥獣戯画』の軽妙な筆致は漫画の原形といえる。また平**が貴族の女性の間に広まり、**文字を用いた文学が生まれた。
問題28
****はしなやかな観察力で宮廷の暮らしや季節の移ろいをつづった随筆『枕草子』をあらわし、紫式部は貴族の恋を題材に世界最古の長編小説『源氏物語』を書いた。
問題29
清少納言はしなやかな観察力で宮廷の暮らしや季節の移ろいをつづった随筆『***』をあらわし、紫式部は貴族の恋を題材に世界最古の長編小説『源氏物語』を書いた。
問題30
清少納言はしなやかな観察力で宮廷の暮らしや季節の移ろいをつづった随筆『枕草子』をあらわし、***は貴族の恋を題材に世界最古の長編小説『源氏物語』を書いた。
問題31
清少納言はしなやかな観察力で宮廷の暮らしや季節の移ろいをつづった随筆『枕草子』をあらわし、紫式部は貴族の恋を題材に世界最古の長編小説『****』を書いた。
問題32
和歌では醍醐天皇の勅命で***らが『古今和歌集』を編纂し、小野の小町や在原業平など六歌仙といわれる歌人の名作などが収録された。後白河上皇は今様(はやり歌)を集めて『梁塵秘抄』を編纂し、かぐや姫の物語『竹取物語』もこのころ書かれた。
問題33
和歌では醍醐天皇の勅命で紀貫之らが『*****』を編纂し、小野の小町や在原業平など六歌仙といわれる歌人の名作などが収録された。後白河上皇は今様(はやり歌)を集めて『梁塵秘抄』を編纂し、かぐや姫の物語『竹取物語』もこのころ書かれた。
問題34
和歌では醍醐天皇の勅命で紀貫之らが『古今和歌集』を編纂し、小野小町や在原業平など六歌仙といわれる歌人の名作などが収録された。後白河上皇は今様(はやり歌)を集めて『****』を編纂し、かぐや姫の物語『竹取物語』もこのころ書かれた。
問題35
和歌では醍醐天皇の勅命で紀貫之らが『古今和歌集』を編纂し、小野の小町や在原業平など六歌仙といわれる歌人の名作などが収録された。後白河上皇は今様(はやり歌)を集めて『梁塵秘抄』を編纂し、かぐや姫の物語『****』もこのころ書かれた。
問題36
10世紀末になると、庶民のあいだには社会不安から**思想が広まった。都では放火・盗賊が横行し、比叡山の僧兵らが暴れた。地方では武士が台頭し、天災がたてつづけにおこった。それにこたえるように比叡山天台宗の源信や空也らが登場し、念仏をとなえて阿弥陀仏に帰依すれば極楽浄土生まれ変われるという浄土教を説いた。
問題37
10世紀末になると、庶民のあいだには社会不安から末法思想が広まった。都では放火・盗賊が横行し、比叡山の僧兵らが暴れた。地方では武士が台頭し、天災がたてつづけにおこった。それにこたえるように比叡山天台宗の源信や空也らが登場し、念仏をとなえて阿弥陀仏に帰依すれば極楽浄土生まれ変われるという**教を説いた。
問題38
貴族たちも極楽浄土にあこがれ、阿弥陀堂を建てて阿弥陀仏の像を奉納した。****の平等院鳳凰堂(京都府)や奥州藤原氏の中尊寺金色堂(岩手県)がその代表である。
問題39
貴族たちも極楽浄土にあこがれ、阿弥陀堂を建てて阿弥陀仏の像を奉納した。藤原頼通の******(京都府)や奥州藤原氏の中尊寺金色堂(岩手県)がその代表である。
問題40
貴族たちも極楽浄土にあこがれ、阿弥陀堂を建てて阿弥陀仏の像を奉納した。藤原頼通の平等院鳳凰堂(京都府)や奥州藤原氏の******(岩手県)がその代表である。
問題41
武士は、皇族や中央貴族の血統をくみ、また、指導者としての能力に優れた者を棟梁として主従関係を結んで武士団をつくった。なかでも、天皇の子孫とされる**と平氏がひきいる武士団が、とくに有力だった。
問題42
武士は、皇族や中央貴族の血統をくみ、また、指導者としての能力に優れた者を棟梁として主従関係を結んで武士団をつくった。なかでも、天皇の子孫とされる源氏と**がひきいる武士団が、とくに有力だった。
問題43
10世紀の中ごろ、関東の豪族のと、瀬戸内地方の国司だった藤原純友が、武士団をひきいて反乱をおこした。
問題44
10世紀の中ごろ、関東の豪族の平将門と、瀬戸内地方の国司だった****が、武士団をひきいて反乱をおこした。
問題45
**天皇は、14年間在位したのち、幼少の天皇に皇位を譲り、**上皇として天皇の後ろだてになって政治の実権をにぎった。この政治を院政という。摂関政治は、天皇の母方の一族が実権をにぎる政治だったが、院政では、天皇の父や祖父が、朝廷のしきたりにとらわれない政治を行った。
問題46
白河天皇は、14年間在位したのち、幼少の天皇に皇位を譲り、白河上皇として天皇の後ろだてになって政治の実権をにぎった。この政治を**という。摂関政治は、天皇の母方の一族が実権をにぎる政治だったが、**では、天皇の父や祖父が、朝廷のしきたりにとらわれない政治を行った。
問題47
1156(保元元)年、後白河天皇と崇徳上皇の間で、激しい対立がおこった。これに、勢力争いをしていた藤原氏の兄弟や、有力な武士たちが二手に分かれて加担し、戦いになった(**の乱)。戦乱は小規模だったが、都を舞台とした天皇・上皇の争いの解決に、武士が大きな力を発揮した。
問題48
保元の乱ののち、勝者の後白河天皇(のちに上皇)を支えた貴族の間の勢力争いから、1159(平治元)年に再び戦いがおこった(**の乱)。この乱で、平清盛が源義朝を破り、平氏が武士の中でもっとも有力な勢力となった。
問題49
保元の乱ののち、勝者の後白河天皇(のちに上皇)を支えた貴族の間の勢力争いから、1159(平治元)年に再び戦いがおこった(平治の乱)。この乱で、***が源義朝を破り、平氏が武士の中でもっとも有力な勢力となった。
問題50
***は、大輪田泊を整備して、宋の商船を招くなど、日宋貿易に力を尽くし、莫大な利益をあげた。こうして平氏は、「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏の一族でない者は人ではない)といわれるほど栄えた。
問題51
平清盛は、****を整備して、宋の商船を招くなど、日宋貿易に力を尽くし、莫大な利益をあげた。こうして平氏は、「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏の一族でない者は人ではない)といわれるほど栄えた。
問題52
平清盛は、大輪田泊を整備して、*の商船を招くなど、日*貿易に力を尽くし、莫大な利益をあげた。こうして平氏は、「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏の一族でない者は人ではない)といわれるほど栄えた。
問題53
平清盛は、大輪田泊を整備して****に力を尽くし、莫大な利益をあげた。こうして平氏は、「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏の一族でない者は人ではない)といわれるほど栄えた。
問題54
***は、鎌倉を拠点して関東の武士と主従関係を結び、しだいに力をたくわえていった。頼朝は朝廷の命を受けて弟の義経らを派遣し、平氏の追討に向かわせた。義経は、幼い安徳天皇とともに都から落ちのびていた平氏を各地の合戦で討ち、1185(文治元)年、ついに壇ノ浦でほろぼした。これら、源氏と平氏の一連の戦いを、源平合戦とよぶ。
問題55
源頼朝は、**を拠点して関東の武士と主従関係を結び、しだいに力をたくわえていった。頼朝は朝廷の命を受けて弟の義経らを派遣し、平氏の追討に向かわせた。義経は、幼い安徳天皇とともに都から落ちのびていた平氏を各地の合戦で討ち、1185(文治元)年、ついに壇ノ浦でほろぼした。これら、源氏と平氏の一連の戦いを、源平合戦とよぶ。
問題56
源頼朝は、鎌倉を拠点して関東の武士と主従関係を結び、しだいに力をたくわえていった。頼朝は朝廷の命を受けて弟の***らを派遣し、平氏の追討に向かわせた。***は、幼い安徳天皇とともに都から落ちのびていた平氏を各地の合戦で討ち、1185(文治元)年、ついに壇ノ浦でほろぼした。これら、源氏と平氏の一連の戦いを、源平合戦とよぶ。
問題57
源頼朝は、鎌倉を拠点して関東の武士と主従関係を結び、しだいに力をたくわえていった。頼朝は朝廷の命を受けて弟の義経らを派遣し、平氏の追討に向かわせた。義経は、幼い安徳天皇とともに都から落ちのびていた平氏を各地の合戦で討ち、1185(文治元)年、ついに***でほろぼした。これら、源氏と平氏の一連の戦いを、源平合戦とよぶ。